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yurukatsu創価
功徳罰論っていうのは結局、見返りと報いを求める心の投影なんだと思います。 こんだけ活動して時間もお金も捧げてんだから功徳なきゃ納得できない。 逆に師匠や組織に反旗翻したやつらには罰が当たんなきゃ理不尽だ。 本人達は認めないでしょうが、そうやって自我を安定させ納得させるんです。
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
そうじゃないでしょう。それを言い出したら仏法もへったくれも無くなりますよ。
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yurukatsu創価 Apr 16
Replying to @_shousaiko @massykumi
初めまして。私も功徳や罰というものが厳然とあって、それをもって正しい宗教や誤った宗教があると信じていました。しかしどの事例をとって功徳や罰とするかは主観的な判断でしかありません。
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
御書や教学学んで来なかったのですか。何を基にされてきたんですか。一旦は信じて信仰始められたんですよね?
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yurukatsu創価 Apr 16
Replying to @_shousaiko @massykumi
学んだ上で、功徳罰論を仏法の中心に据える事はおかしいと思ったのです。極端な例を挙げるようですが、池田先生のご子息が亡くなった事は罰になるでしょうか。また、罰が当たるなら極悪人とされる阿部日顕氏は94歳でまだ存命中なのは何故でしょうか。
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
罰には目に見えるもの、そうでないものがあります。生死は人の常で避けられません。生死の短長で人の信仰心の内容が決まるのでもありません。 究極は何の為に自身の生命を費やすか、それを教える仏法です。
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yurukatsu創価 Apr 16
Replying to @_shousaiko @massykumi
8割ほど同意いたします。しかしその目に見える罰やそうでない罰があるとどう客観的に証明できるのでしょうか。生老病死が常であるなら、それらの一部を罰と断定することが可能ですか?
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yurukatsu創価 Apr 16
Replying to @_shousaiko @massykumi
また、8割同意すると申し上げたのは、「人の振る舞い」や「不軽菩薩」の実践という「生き方」を重んじるのが仏法であるし、その結果として功徳や罰があるかは捉え方の問題でしかないという意味です。
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
一部の死を罰と断定する基準が何かによると思います。だいたい、どこへ話を持って行きたいのかは理解できますけど。
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まっしー Apr 16
横から失礼します。教学上の功徳・罰論はともかく、yurukatsu創価さんがツイートした、功徳と罰に対する捉え方は、学会の活動家の多くが持っていますよね。自分も昔はそうでした。
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
目に見えることは重要ですし、かといって見えないけども重要なこともあります。どう捉えてもその結果が大事です。国滅ぼす罰も説かれている。お分かりですよね?
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
罰という言葉に悪意しか感じておられないかもしれませんが、そうでは無く、本当は其々の生命の最善を見たときには最高に敬っているが故の指摘でもあると思いますよ。
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yurukatsu創価 Apr 16
Replying to @_shousaiko @massykumi
要するに、相手の仏性を固く信じて「そんなことをしていては罰があたるよ」と指摘するのは慈悲だという事ですか?親心に近い感情で仰る方も当然いらっしゃるでしょう。しかし善意にせよ悪意にせよ、罰があたることを証明したことになりますか?
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
証明は自分ですれば納得いくと思います。 経文にどう書いていても、誰がが何を言っても信じる気持ちがまずなければ、何も理解できないでしょうから。
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saiko Apr 16
Replying to @massykumi @yurukatsu21
組織が垂れ流す打ち出しをこなす事で功徳があるとして「打ち出し信仰」してるから、そうなるのではないでしょうかね。 目には見えていなくても〝罰が何〟〝功徳が何か〟もわからなくなる。師匠の言葉を受け流して目先の保身にで生きるからでは。
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なつ Apr 16
いえね。 単純に、信じているだけなんですよ。 その信じた立場から、それ(罰や功徳)を正当付ける言い訳も出来てしまう、と言う所が、やっかいなんです。
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なつ Apr 16
そうですねー。 「功徳・罰」って言うと、他者(仏・神)から与えられるもの、と感じます。それを宗教は利用しているのね。行いの結果として、現れるもの。と言う言い方ならいいのかな?「よく眠ったら元気になった」笑い
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yurukatsu創価 Apr 16
Replying to @_shousaiko @massykumi
自分で証明するにしても、自分の身に起きたことを功徳か罰か、最後は自分で判断するわけですよね。そうすると「これは功徳だ」「罰だ」と、自分が信じているに過ぎず、「罰が存在する」ことを証明したことにはならないでしょう。
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yurukatsu創価 Apr 16
Replying to @_shousaiko @massykumi
付け加えて申し上げれば、功徳か罰かで捉えるより、「人の常」である生老病死を「苦楽ともに思い合わせて」題目を唱えていく方が自然だと思いますよ。
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saiko Apr 16
Replying to @yurukatsu21 @massykumi
yurukatuさんの言われるように、師匠が居て、それに敵対しても罰が無いとします。で、その上での苦楽とはどういうものですか。人の行いの基準、それに反逆しても罰なしとする人の善悪と苦楽とはどういうことを指すのでしょう。
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