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四ッ谷龍
選考委員とか選者とか、できるだけやりたくない。他人に対する評価なんて、本質的にむなしいものなんだ。 裕明賞は裕明の賞だから引き受けて、必死にやっている。これは別のもの。 俳句の世界では、選者をやりたい人とか俳句地図を作りたい人がいっぱいいる。好きにやればと思う。
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上田信治 Jun 17
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>他人に対する評価なんて、本質的にむなしいもの 作品に対する評価ではなくて? 他人を評価したいという欲求は、それは、虚しい望みでしょうけれど……そんなへぼい人が「いっぱいいる」ように、四ッ谷さんには見えるんですね?
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四ッ谷龍 Jun 17
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へぼい人かどうかは存じませんが、人を評価したり指導したりする側にまわりたがる方が大勢いるとは感じますね。
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上田信治 Jun 17
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作品を読むこと、それを評価することは、俳句にとって必要な仕事です。四ツ谷さんは、その仕事を、なぜ「他人を評価すること」であると受け止め、虚しいことだと思われるのでしょう?
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四ッ谷龍 Jun 17
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作品を読むのは重要なこと。 評価するのが重要かどうかはあやしい。 少なくとも、評価すること(相対的な順位づけ)が最終目的ではないと思いますね。
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上田信治 Jun 18
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誰が誰より上なのか、を気にしているのは、四ッ谷さんなんじゃないですか? 反論、反問、お待ちしています。
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四ッ谷龍 Jun 19
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まず、「評価する」ということばが私は嫌いなんですね。俳句に限らず、人事評価とか、あらゆる面で嫌いですね。 機械の性能評価とか、客観的に判断できるものは別。 人間が人間を評価するなんていうことがそもそも嫌ですね。 と言いながら、ついつい評価ということばを使ってしまう場合がありますが
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四ッ谷龍 Jun 19
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文学作品の価値っていうのは、500年ぐらい経たないと確定しないんじゃないかと思うんですね。いや、500年経っても確定しないか。 だから、今の自分の判断だって偏っているということは大いにありうるし、そのことは自覚しています。
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四ッ谷龍 Jun 19
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しかし俳句に向かい合ったときに、絶対的にその作品に心を奪われるということがあります。 絶対的に心を奪われた作品について語るのは苦痛ではない。今の私がこの句に惹かれたということは事実だから。それが短見だったとしても、それは自分の力が至らないということであって恥ずべきことではない。
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四ッ谷龍 Jun 19
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これは愛や共感の問題であり、評価の問題ではありません。 問題は、選や選考ということになると、それだけではすまないということです。相対的に良い句、相対的に悪い句についても語らなければならないし、そこに評価というファクターが入ってくる。
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四ッ谷龍 Jun 19
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このことが苦痛だから、いつも賞の選考の前にはほとんどアルコール依存症に近い状態になります。 他人を評価したくないんです。
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四ッ谷龍 Jun 19
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上田さんが「神さまをあらしめるために評価は必要だ」とおっしゃっているのは驚くべきロジックですね。 神さまは、自分の心の中にいるものであって、御神輿みたいにみんなで担ぎ出すものではない。神さまは自分の心の中の、絶対の共感とともにあります。
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四ッ谷龍 Jun 19
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「共同性の創出なしに、詩が可能だとは、自分には思えません」というのは、ことばとして美しく響きますが、本当かねと思ってしまいます。
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四ッ谷龍 Jun 19
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何度もツィートしていることですが、私が詩人として尊敬するのは、エミリ・ディキンソンです。彼女は自分の作品をまったく発表せずたんすに入れていて、死後まで発見されませんでした。彼女はひたすら神さまと対話しつづけた。こういうのが、ほんとうの詩人だと思います。共同性の創出は無関係です。
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四ッ谷龍 Jun 19
Replying to @ueda_shinji
詩人が全員ディキンソンになってしまうと詩の世界が沈滞してしまうので、盛り上げる活動がなされるのは悪いことではない。しかし、活動を主催する人が「エミリみたいな人がほんとうの詩人なんだ」ということをどこかでわかっていないと、それは文学活動ですらなくなるでしょう。
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四ッ谷龍 Jun 19
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上から目線だの、マウンティングだのといったことは、私の言いたいことではありません。そうではなくて、「俳人たちを分類したり評価したりするなんて、怖いことを平気でやるなあ」というのが私の感じる ことです。
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四ッ谷龍 Jun 19
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他人の俳句に共感するというのは、神さまに近い領域で実現することであって、相対的にマッピングで表現できることではないからです。
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四ッ谷龍 Jun 19
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念のために言えば、「神さま」というのは特定の宗教の人格的な神のことではありません。 「自分は自分の主人ではない。自分はえたいの知れない、もっと大きいものに支配されている」という自覚があって、そのえたいの知れないものは、とりあえず神さまとでも呼んでおくしかないということです。
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四ッ谷龍 Jun 19
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自分の主人は誰かという問題は、以前シンポジウムの場で上田さんの考え方に関連して申し上げたことがあるので、それを思い出していただければよいかと思います。 (終わり)
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上田信治 Jun 19
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四ッ谷さんは裕明賞の選者として、他の選者の推す有力な候補作に対し、攻撃的論陣をはって受賞を阻む、という印象があったので、よい機会なのでお考えをうかがっておこうと思った次第です。
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