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瑞雲 3h
の元祖を、 とした場合、その関係人物や場所などは多く、西日本のかなりの場所になってしまう。よって、調べるのが大変なのである。でも、それ故に面白い。なんでそこに???ってなるから。(^.^)<瑞雲bot>
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瑞雲 9h
の 三代目。。「あしかがよしたね」とよく読まれるが、「あしかがよしかず」とふりがながあるものもある。双方将軍と同じ読みだが、本当にいいのか?この通りで?と思うのではある。またこの人は、阿波公方側の資料「」を著し、四代義次に与えている。 <瑞雲bot>
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阿波公方研究会 Dec 10
の係累およびその味方勢力のまとめリストを作ってみました。 よろしくお願いします。
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瑞雲 Dec 10
の件で、 を読み直す。そこの足利十一代将軍源義植(要は義稙)の記述に、「永正年中渡海ス阿州撫養ニテ大永巳元年四月九日薨京北山ニ葬ル」とある。そうなると、北山のどこに埋葬された?どういうことなのか?非常に興味深い。<瑞雲bot>
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阿波公方研究会 Dec 8
大正11年発行の 村史平島 によると、 (つまりは、 のこと。)は、「本村史上の花」との記述がある。実際、同書によると、平島村民の信仰厚かったことが窺える。
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瑞雲 24h
側の史料によると、弘治元年4月から、永禄六年十二月まで、 は、大内氏を頼って山口に滞在したとあるが、その頃は、毛利の防長経略の最中。ひとまずの義興の縁者として遇されたはいいが、最終的には体よく阿波に返されたと見るのが正しいのかもしれない。 <瑞雲bot>
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阿波公方研究会 Dec 6
およびその係累に対する要は、敵対勢力のまとめです。いずれ増やしていくんだろうと思います。よろしくお願いします。
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阿波公方研究会 Dec 1
の関係地・・・。現在の の辺りに、下屋敷を構えていたようだ。当会としては、まだその場所を特定していない。 の西側を山の方にいった辺りか?との見当は、あるものの。
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阿波公方研究会 Nov 30
の初代は、 です。 室町幕府の将軍には、なり損ないましたが、いわゆる の主です。 ただ、長くは続きませんでした・・・。
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阿波公方研究会 Dec 2
の、江戸期の収入源の一つに、 がある。旧那賀川町の調査によると、十九枚の現存が確認されている。
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瑞雲 Dec 1
の関係ですが、 上で、「」と言うのがあり、現地調査の動画撮影などやっています。ついでに上げておきます。 <瑞雲bot>
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瑞雲 Nov 30
四代目の 。親族にキリシタンがいたと言う嫌疑のせいで、 に呼び出され尋問される。そのせいもあってか、この人から名字を(足利→平島)換えさせられてしまうと言う仕打ちなどまで受けてしまう。 <瑞雲bot>
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瑞雲 Dec 2
の9代公方 。「あしかがよしもと」と読むはずが、あちこちで、「あしかがよしね」と呼ばれてる・・・。ただ、 にある、 の館内掲示では、「よしもと」の方。さて、どっちが正しいのやら???(^_^;) <瑞雲bot>
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阿波公方研究会 6h
の関係地・・・ 。当地、 住職家の 家とは、九代公方 室の猶 が、その出身( の三女)であるため、親戚に当たる。
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瑞雲 17h
です。 では、こういうところ( の墓)も行きました。 の敵方の拠点や墓でも行きます。<瑞雲bot>
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瑞雲 20h
をどこからカウントするか・・・。 ? ? ? それぞれの考え方はあるが、 と表記している例があることを見ると、 からでいいのかもしれない。<瑞雲bot>
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瑞雲 Dec 9
の菩提寺である、 のかつては、伽藍もあるような大規模な寺院であった。しかし、明治元年、昭和17年などの失火で寺宝や建物は焼失し、その規模も、当時とは比べようもない程小さくなっているが、今だ健在である。 <瑞雲bot>
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阿波公方研究会 Dec 9
の家系図をたどると、 というキリスト教徒が出てくる。寛永十二年に、 にて捕縛され、翌寛永十三年に処刑される。平成二十年に、長崎にて、 に列している。
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瑞雲 Dec 8
 。 成立後の基礎収入。藩 からの 百石( 十一年からは、千石)。。近隣庶民への金貸し。 産の炭の売却益。 大方、こんな感じです。とても、公方の体面を意識した生活は、出来そうにない感じです。 <瑞雲bot>
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阿波公方研究会 Dec 7
の関係地・・・ と、 の二人の将軍が、時期が違えど、この地で薨じている。
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